佐賀県指定史跡
鵜殿石仏群
大同元年(806)、空海(弘法大師)が唐(当時の中国の国名)より仏教修行をした帰りにこの地に立ち寄り、釈迦如来、阿弥陀如来、観音菩薩の三対の仏様を岩肌に刻んだのが始まりだといわれています。現在鵜殿石仏群には、60数体の石仏が確認されています。いずれも南北朝時代(14世紀)と室町・戦国時代(15世紀〜16世紀)のものです。中世の山岳仏教の面影を残す九州有数の石仏で、その規模は石仏の数から臼杵の石仏(大分県臼杵市)に次ぐものといえます。
鵜殿窟の由来
最初に石仏を彫ったのは・・・
鵜殿山について・・・

鵜殿窟の由来
ここらあたり一帯を『鵜殿窟』と言いますが、言葉の起こりは『うど』は『うどから』の『うど』で『の』は助詞『いわや』は『岩の家』という意味で『洞窟』というわけです。今から数十万年前の大古の時代は、海底でした。地殻の変動で海水が減退するにつれて、打ち寄せる波のため。大きな洞窟ができました。その、洞窟の一番奥に刻み込まれている仏様が、今見ることができる仏様です。今は青天井になっていますが、もとは大きな洞窟で、その中には『平等寺』というお寺が建っていました。
その寺が天正年間に、佐賀の竜造寺と、植松浦党主波多氏との戦いのときに焼けたので、天井の岩石が落下して、今では全くその面影がなくなっています。

最初に石仏の彫ったのは・・・
鵜殿石仏群が最初に空海によって彫られたと言われています。この話しは、豊臣秀吉時代の文禄3年(1594)に書かれた『鵜殿山平等寺略縁起(うどのさんびょうじりゃくえんじ)』という古文書に初めて出てきます。しかし、現在確認されている石仏の中には、空海時代の平安時代(9世紀)のもの、さらには空海が彫ったとされる釈迦如来・阿弥陀如来・観音菩薩の3体の仏様は存在しません。
空海は、大同元年(806)に唐での仏像修行を終え、遣唐使と一緒に博多に着岸しました。そして、翌年の大同じ2年(806)に京都に戻りますが、その間の約1年間の北部九州滞在時代の空海の行方については『性霊集(しょうりょうしゅう)』や『御遺告(ごゆいごう)』、『御広伝(ごこうでん)』などの空海関係の古文書にも書かれていません。しかし、その間空海が北部九州にいたことは、これらの古文書に記載されているので間違いはありません。
あるいは、空海は、この鵜殿山に来て仏像を彫ったのかもしれませんが、このあたりが歴史の推理的な面白さが残るところで、空海時代の石仏が発見されれば、空海伝説の信憑性が出てくるかもしれません。

鵜殿山について・・・
鵜殿山は仏教の修行場の1つで、当時は山岳仏教(密教)といわれるものを、山々の奥で修行していました。では、鵜殿山の修行には一体どのような意味があるのか・・・
鵜殿山は、一種の「極楽浄土」や死後の「仏の世界」に例えられていて、ここで修行した人々は、様々な仏教修行に励んでいました。そして、修行が達成されたら仏教世界の最高神である「大日如来」(南北朝時代か室町時代の作か不明)が見守る入口から入り、仏教用語でいう「胎蔵界(たいぞうかい。ものや人を生み出す世界とされ、死後の世界とこの世を結ぶ道。ここでは、胎内くぐりといわれている)」と呼ばれる千体仏の仏たちが彫られていた洞窟をくぐり、再びこの世に戻ってくると考えられていました。
こうした一連の修行は「擬死再生(ぎしさいせい。一時的に死んで仏の世界に行き、仏たちの見守る中で修行し、修行が達成されたら、頬脳や様々な悪い業(ごう)から開放され、胎蔵界をくぐって再び戻ってくること)」といわれ、多くの石仏や「胎蔵界」を備えたこうした山岳仏教の修行場は、和歌山県の熊野山などが有名ですが、この鵜殿山のように60体あまりの仏が現存する修行場は珍しいといえます。